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三菱重工サッカー部の
系譜SPECIAL CONTENTS

VOL.10 | 2018.06.23

大畠 襄Nozomu O'HATA 日本スポーツ最初のチームドクター

浦和レッズの前身でもある三菱重工業、その系譜をたどる連載。第10回は、日本初のチームドクターとして三菱重工サッカー部を支え、日本のスポーツ医学の普及と向上にも大きく貢献した、大畠襄氏の下を訪ねた。

インタビュー・文=大住良之
(Interview and text by Yoshiyuki OSUMI)

写真=今井恭司
(Photo by Kyoji IMAI)

大畠 襄 日本スポーツ最初のチームドクター

「ギド、ちょっとこっちへ来い」

 呼び止められたギド ブッフバルトは、けげんな顔つきで小柄な指揮官を見た。

 1994年ワールドカップ・アメリカ大会の開幕が目前に迫っていた。開幕戦のスタジアム視察に訪れたドイツ代表チーム。目の前に立った大柄な日本人を見て、ベルティ フォクツ監督がブッフバルトを呼んだのだ。

「FIFAのドーピングドクターが君に話があるそうだ」

 身に覚えがなくても、気分のいいものではない。寄ってきたドイツ代表のベテランDFは表情を曇らせた。

 その顔を見てフォクツ監督が吹き出した。

「あっはっはっ! ギド、こちらは君が今度お世話になる浦和レッズのプロフェッサー・オーハタだよ」

 大柄な日本人をはるかにしのぐ大男の表情が一挙に崩れた。ギドは人の良さそうな笑顔を見せ、右手を差し出す。日本人も、満面の笑顔を見せる。三菱重工サッカー部時代からチームドクターを務め、FIFAのスポーツ医学委員会の委員でもある大畠襄だった。

大畠 襄 日本スポーツ最初のチームドクター
地球の裏側への大遠征を支えた「サッカー・ドクター」の存在

 大畠が初めて三菱重工サッカー部の海外遠征に帯同したのは、1970年1月のことだった。日本のクラブチームとして初めての中南米遠征の一員となったのだ。

 前年の日本サッカーリーグ(JSL)で初優勝を飾った「ご褒美」として、牧田與一郎社長からサッカー部への大きなプレゼントだった。1月19日に羽田を出発し、アルゼンチン、ブラジル、ベネズエラ、メキシコの4カ国を回りながらリバープレート、サンパウロFC、フラメンゴなどの超一流クラブとの対戦を含む計10試合。3月6日に帰国するという「大遠征」だった。

 その話を聞いて、「そんなに長い遠征なら、医師を帯同させた方がいい」とアドバイスしたのが、牧田社長の友人だった東京慈恵会医科大学の樋口一成学長だった。「それならいい医師を紹介してほしい」と言われた樋口学長は、迷わず当時39歳の大畠を推薦したのだ。

 54年に慈恵医大を卒業して整形外科医として働き始めた後、恩師の片山良亮教授の勧めでスポーツ医学、中でも外傷学に取り組んできた大畠は、すでに「サッカー・ドクター」として日本国内に知られた存在だった。

 64年の東京オリンピックで慈恵医大が体操と水球の競技場で医事担当をする傍ら、大畠本人は駒沢陸上競技場で日本サッカー協会派遣の医療チームのチーフとして活動した。66年には片山教授の勧めでアメリカと欧州各国の整形外科を視察した。

 47日間もの長期間、「地球の裏側」で4カ国を渡り歩きながら10試合をこなすのは楽なことではない。リバープレートには1-3と奮闘したが、サンパウロFCには0-8でたたきのめされた。蓄積する疲労、チャンスはできても得点が遠い焦り……。肉体面、精神面のタフさが必要であり、ドクターとしては、相手のラフプレーによるケガの治療だけでなく、食事や環境など、あらゆる面でのケアが必要だった。

 ただ幸いなことに三菱の中心選手たちは日本代表として海外遠征の豊富な経験を持っていた。チームとしても前年3月に東南アジア遠征の経験があり、選手たちは、10時間を超すバス移動にも、ベネズエラからメキシコへの急な飛行便変更にも動じないタフさを持っていた。

日本初のチームドクター誕生。真摯なケアに寄せられた信頼

 その遠征から9カ月後の70年12月、バンコクで開催されたアジア大会に参加した日本代表チームは、初めて正式にチームドクターを帯同させた。参加したのはもちろん大畠だった。以後10年間、日本代表の活動には必ず大畠が帯同することになる。

 チームに合流して驚いたのは、選手の大半がケガを抱えていたことだった。試合中の手当てだけでなく、宿舎に戻ってからも次の試合に備えて治療に大忙しという状況だった。

「JSLのチームにメディカルケアの意識を植え付ける必要があるな……」

 こう話す大畠に、監督の岡野俊一郎も同感だった。デットマール クラマーの愛弟子であった岡野ら日本代表の指導陣は、「代表チームよりむしろ各チームにチームドクターを置いて、医学的な管理をしておかないと、選手がダメになってしまう」という考え方を持っていた。

 こうして翌71年、三菱重工が他チームに先駆けて大畠をチームドクターとして正式登録した。これはサッカー界にとって大きな出来事だった。4月4日の第7回JSL開幕戦、東京・国立競技場で行われた日立戦で、大畠は三菱のベンチに入った。当時、アマチュア競技はもちろん、プロ野球にも正式なチームドクターはいなかった(プロ野球の読売ジャイアンツがチームドクターを置くのは85年のこと)。日本のスポーツ史に残る日付である。試合は三菱が7-0で大勝した。

「とにかくケガを隠すなと選手たちに話しました。当時の選手は、ケガをしても誰にも悟らせないようにするのが選手というものだ、という風潮がありましたからね。一番いい治療法を考えてあげるから隠すなと、繰り返し言わなければなりませんでした」

 間もなく、休むにしろ、プレーを続けるにしろ、大畠にきちんと話し、しっかり手当てしてもらうことが一番いいと分かると、選手たちは無条件に大畠に信頼を寄せるようになる。時には家族の病気の相談までされるようになり、関係性を深めていった。

 その年、三菱はJSLでは2位にとどまったが、天皇杯では決勝戦でJSL優勝のライバル・ヤンマーを3-1で下して初優勝を飾る。二宮寛監督の胴上げを終えた選手たちは、大畠のところに走り寄り、あっという間にその大きな体を空中に放り上げた。「チームドクターの胴上げ」は、もちろん、日本で初めてのこと(日本初のチームドクターなのだから当然)だった。

大畠 襄 日本スポーツ最初のチームドクター
活躍の場を国内から海外に広げ、日本のスポーツ医学の発展に貢献

 大畠は1930年11月25日、東京生まれ。父は国際的にも有名な宗教学者で、東京大学の名誉教授だった。成城小学校(現・成城学園初等学校)から旧制の成城高等学校尋常科(現・中学校)に進学、小学校時代に体が弱かった襄を心配した両親がスポーツを勧めると、担任が成城高校にサッカー部をつくった臼井毅だったこともあり、サッカー部に入部する。

「最初は嫌で仕方がなかった」と言うが、みるみる体力がつき、自信もできると、サッカーが面白くなった。慈恵医大に進学してもサッカーを続け、やがて40代から50代にかけては旧制高校のOB大会で活躍し、結局70歳すぎまでプレーすることになる。

「片山先生からスポーツ医学を勧められたのも、僕がサッカーをしていることをご存じだったからなのです」

 そうして医師としてサッカーに関わり始めたが、驚くことに全てボランティアだった。当時の日本サッカー協会は万年赤字だったし、大企業の三菱とはいえ、サッカー部に日本のトップクラスのスポーツドクターを抱える予算などあるはずがなかった。

 JSLでは三菱に倣い、次第にチームドクターが増えていったが、当時のJSL参加企業は大企業が多かったので、企業が抱える附属病院の医師などが多かった。大畠は68年、慈恵医大に形成外科が新設されると、自らの守備範囲を広げるために転科、そして84年には教授、さらに85年には同医大に健康医学センタースポーツ外来部を立ち上げて部長を兼任、87年以降は東京慈恵会医科大学附属柏病院院長まで兼任するという超多忙な「本業」をこなしながら、「サッカー・ドクター」を続けた。JSLは基本的に日曜日に試合があったから、休みなどほとんどなかった。

 JSLの各チームにチームドクターがそろい始めた74年6月、井上健総務主事(三菱重工サッカー部OB)の理解と熱心な後押しにより、「チームドクター協議会」が発足した。情報を共有し、日本サッカーの財産である選手の健康管理を行うことを目的に、「サッカー傷害月報」を発行し、健康手帳「サッカーヘルスメイト」をつくった。大畠は議長を務めてみんなを引っ張った。

「どのチームドクターも、ケガ人が出ると電話をかけ合っていましたよ。『こういう症状の選手がいるから見てよ』なんてね。みんなそれぞれに専門分野があり、僕は顔面や手の外傷が得意で、そうしたケガをした選手は僕のところに送られてきました。今のように選手を抱え込むという感じはなく、どんどん『流通』させるという気分でした。レフェリーの治療もよくしましたよ。ピッチの上がとても家族的な雰囲気でしたね」

 大畠は77年には日本サッカー協会の医事委員会委員長となり、忙しくなる一方の「本業」の傍ら、79年からはアジアサッカー連盟(AFC)の医事委員(83年以降は委員長)、82年以降は国際サッカー連盟(FIFA)のスポーツ医学委員会委員と、「サッカー・ドクター」としての活躍をどんどん広げていった。当時日本からの唯一のFIFAの委員会委員だった大畠のつくった人脈は、2002年ワールドカップの招致に大きな助けになった。

 その一方で、大畠は日本初の地域型総合スポーツクラブと言っていい「三菱養和会巣鴨スポーツセンター」の設立プロジェクトにも関わり、医学カウンセリングを実施、後には養和会調布でサッカーコーチへのスポーツ傷害学講義など、スポーツ医学を広める活動にも携わっていく。

 FIFAでは90年ワールドカップ・イタリア大会からドーピングコントロールも担当。その経験からJリーグの川淵三郎チェアマンに健全なプロリーグにするためにドーピングコントロールが必要であることを説き、95年からJリーグに年間を通じての実施を実現させる。

 スポーツ医学というと新しい学問のようだが、日本のスポーツ医学は明治の末年にはその萌芽が見られ、昭和に入るとドイツやイギリスの研究に刺激されてスポーツ生理学やスポーツ傷害の研究が行われた。しかし、戦争の足音が迫る時勢の中、体力科学に関心が集まるようになり、それは戦後まで続いた。

 スポーツ医学の中身が変化したきっかけは64年の東京オリンピックだった。国民の間でスポーツが盛んになり、それに伴ってスポーツによるケガへの対応の必要性もどんどん増していったのだ。

 大畠はその黎明期から半世紀以上にわたって最前線の「スポーツドクター」として活躍し、幅広く日本のスポーツ医学を導いてきた。その活動の中心に三菱重工サッカー部があったことは、レッズのファンとして大いに胸を張ろうではないか。

大住良之 Yoshiyuki OSUMI

神奈川県横須賀市生まれ。
大学卒業後にベースボール・マガジン社に入社し、後に『サッカーマガジン』編集長に就任。88年からフリーとして活動。著書に『浦和レッズの幸福』(アスペクト)など。

URAWA MAGAZINE ISSUE131より転載

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